この業界に入ったのは昭和40年(1965)ですから48年になる。
戦後のインフレを経験した父親の希望で手に職を付けて商売人になる事を常に考えてはいた。

中学卒業後いろいろの職業を転々と変わってこの年兄の口利きで木工業の前田製作に入ったのがギター製作の始まりで、今の言葉でニートのようなもので昭和26年中学卒業以後たくさんの職場を渡り歩いた。自転車製作所、魚屋、金属調質工、鉄筋工、宅配運転手、長距離運転手等長いところで三年短いところは三日、いろいろなことを経験した。14年間で13事業所を渡り歩き14番目が前田製作所だった。
この木工所がエレキのネックを下請けで作っていた、それが私の楽器製作入門のはじまりだった。もともと音痴でギターが好きと思ったこともない私がその後45年間続くとは夢にも思っていなかった。

その頃アメリカでエレキギターブームが始まっていて名古屋はもちろん松本辺りでもエレキギターを作る会社が次々と出来た頃です。シンガーミシン子会社のマツモク工業もその一つでした。当時信州にギター用の専用機を作る鉄工所がないので私の勤める前田製作所が紹介して必要な機材を揃えて量産が可能になりお礼に社員全員浅間温泉に招待されたことがあった。

その頃ののマツモクはミシンのテーブル加工していて穴あけ加工はとても精密で塗装設備も整っていたのでエレキギターのボディ加工は容易に出来たと思うがネックの加工は苦労したのではないかと思う、大きくて綺麗な工場でしたが出来上がった製品も工場も関心が無く見なかったのが今思うと残念だった。

前田製作所は2年位でで自立を思い立ち知人を介して寺田楽器のネック磨きを請け負った。たかがネック磨きだがその頃の寺田楽器は月産一万本で毎日400本のネックを磨くのは大変な作業だった。手伝いを一人雇っての工賃稼ぎは今振り返ると一番安定した収入でした。
今では信じられないことだが社員100人足らずの企業で毎月一万本のギターを作っていた、他の多くの会社でも同じかそれ以上の割合でギターを生産していた。私の知る限りで一番生産効率のよかった会社は安城に有ったギター製作所で50人ほどの社員で月産1万本近い数のギターを作っていた。
その頃の知識はただ形を真似て作る事だけで品質を見る目が無かったので現在の中国製品と比べることは私には出来ないが、感じとしては今の中国製のギターの方がよく出来ているように思う。

徐々に機材を増やして指板加工も始めてまもなく1971年ドルショックが発生ギター業界も激震が走った。それまでは形さえ整っていれば何でも売れたが急激な円高のため利幅がなくなりいっせいに付加価値の向上を目指してフェンダー、ギブソン、マーチンを始めとした欧米メーカーのコピーモデルを作るようになった。
出荷先も少しずつ国内に転換されるようになり私の仕事内容も大きく変わり1980年代いつの間にかエレキギターを作るようになっていた。お客さんが写真や図面を持って来たりオリジナルの現物を持ってきてコピーを指示されて作った。そうしたお客さんの中にオリジナルにこだわる人がいてその人の影響で現在の削りだし加工のヒントをえたがそのときは一本だけの製作で終った。

もともと製作技術は低くただ形を整えるだけでしたから1980年代は全く注文が入らず、後半は廃業状態になっていました。やむなく近くのキッチンテーブル作っている木工所で働くことになりその後10余年NCルーターのオペレーターをしながら休日製作家になる。
そのとき簡単なプログラムを作るためにパソコンに触れる様になり還暦のとき子供から中古のパソコンをプレゼントされてインターネットを覚え、ホームページもソニードブランドを作った時すぐ公開したが思うように更新が出来なかったので閉鎖やっと2年ぶりに再開することが出来た。

いろいろあっても削りだしギターはどうしたら簡単に加工が出来るか何時も考えていた、何のヒントだったか今思いだ出ないが突然ひらめいたものがあって冶具を作ってギターの胴を削る事が出来た。
また偶然丁度良い材料も手に入って試作品を作っているとき新聞でベンチャーフェア2001年出展者募集の広告を見つけて応募、採用されて東京有楽町の東京国際フォーラムに2001年1月に出展、楽器製作を再開する。

それまでは見よう見まねで形だけのエレキギターを作っていて音の特徴を作るようなこと考えたことが無かったので作った製品に対する評価も自分が思うようには頂くことができなかった。
それから10年近い年月がすぎて作り方も、考え方も、ずいぶん変わってきたが職人にゴールは無いようだ。