ギター製造業の興隆期
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明冶20年(1887年)名古屋の鈴木政吉氏がバイオリンを完成している。 その後パリ万博(1889年)で銅賞を受賞のがきっかけで世界中に名前が知れ渡り、第一次世界大戦でドイツのバイオリン生産が激減し、さらに加工方法も改良されて生産量が飛躍的に拡大して日本からバイオリンが世界中に輸出されるようになり従業員も1000人を超える規模となって、ギターやマンドリンも生産するようになりこの地区に弦楽器産業が生まれた。 政吉氏は若いころ三味線の製作に携わっていた、この業界は分業が進んでいたのでバイオリンの製作でも相当数の下請工場、冶具等を作る鍛冶屋といった協力者も有ったと考えられる。 大戦後鈴木バイオリンは2社分割されている、1つは鈴木バイオリン社(現在鈴木バイオリン製造株式会社)もう1つは鈴木バイオリン製造(木曽スズキ昭和60年倒産) 話は前後するが、広まるきっかけは貿易商だった春日一幸氏が昭和9年鈴木バイオリン社から職人を招いて春日楽器を設立ギター、マンドリンの製造と販売を始めた。これは生産が注文に追いつかない状態が続きやむなく作るようになったと思う。 矢入儀一氏、貞夫氏兄弟が鈴木バイオリンから春日楽器を経て昭和10年工場を作る。推測だが同じ頃寺田音蔵氏も工場を作って名古屋にギター産業が定着する基になった。 この頃はまだクラシックギターだけの生産でスチールギター、エレキギターは戦後になってから生産されるようになった。 もともと名古屋は全国有数の木材集散地だったので材料の入手が容易だったこともあり、戦後復興とともに各工場で働いていた職人が独立、名古屋を中心にたくさんの中小のギターメーカーが出来た。また戦時中スズキバイオリンが恵那に工場を疎開していた影響で東濃地方でも多くの関連企業が生まれた。 松本を中心に信州にも多くの楽器メーカーがある。最初に出来たのは富士弦楽器だと思う、あまり知られていないがこの富士弦社の発展にも名古屋のヤスマ楽器製作所の指導があった。 ヤスマ楽器の設立は昭和23年で社長の安間公彦氏は弦楽器組合の理事長を務める傍ら各地の工場を指導したり、また見学を受け入れたりして業界の発展に貢献いました。伊勢湾台風で工場が被害を受けて建て直した時日本のギター業界で初めて冷暖房完備の工場を作った人です。初期の富士弦楽器の社長と従業員数名もこの工場に泊りがけで技術の習得にきていた。また当時ヤマハのギター担当者も見学に来たこともあるリーデングカンパニーでしたが残念なことにこの会社は昭和57年解散をしました。 下請け工場、卸問屋、貿易会社、材料問屋、部品製造会社等と楽器専用機械製造の鉄工所が必然的にできた。 特に名古屋は分業が進みミシン加工、塗装屋等の家内工業的な企業も数多くあった。 私もそうだったが資本をかけないで簡単に開業できた、ミシン屋は木工ミシンが一台とボール盤だけ土間に据えて商売が出来た。塗装屋も一度だけ覗いたことがある、広い板の間に数人の職人が並んで刷毛で塗っているのを記憶している。 名古屋に影響を受けなかった製作者もある。 河野ギターの河野賢氏でこの人は独学でギターを作り始めたが後にスペインに行って本場の製作技術を学んだ最初の日本人ではないかと思う。 ひとつのエピソードがある これは人伝てに聞いた話ですが、当時名古屋で一番の材料問屋に身なりのいい紳士が訪れていきなり大量のサイド、バック材しかも当時最高級のローズウッドを現金で支払った、店主が恐る恐る名前を聞いてそれが河野氏だった。名前はすでに有名で多くの人は知っていたが誰も顔を知らなかったのだ。今では各地に材料販売店があってネットを通じて気軽に購入できるが当時専門店は名古屋以外になかったから。 余談ですが。 浜松も楽器の町として世界に知れ渡っている、これはヤマハ、カワイの二大メーカーがあるからだ。 山葉寅楠氏と河合喜三郎氏の二人がオルガン第一号をつくり、浜松に鍵盤楽器の基礎を築いた、その後この地も名古屋と同じような経過で戦後中小のピアノメーカーや部品メーカーとその下請け企業がたくさん出来たと思う。 鈴木政吉氏がバイオリンを作った同じ明治20年長崎で時計の修理を習得して浜松で時計と医療器具の修理と販売をしていた山葉寅楠氏がオルガンの修理を頼まれた。このオルガン(当時45円)はアメリカから輸入されて浜松の小学校に寄贈されたものでした。そのとき自分なら3円で出来ると考えて飾り職人の河合喜三郎氏と作ったのがわが国のオルガン第一号です。 しかし浜松の小学校で使えないと言われて納得のいかない両氏は東京の音楽取調所(現東京芸大)で調べてもらうため運ぶことになった、当時はまだ鉄道が無いときで天秤棒を二人で担いで大井川を渡って天下の険とと歌われた箱根を越えて運んだ。当時はまだ歩くことが当たり前のときでしたが大きなオルガンをかいでの旅ですから相当の日数がかかったのではないだろうか。検査の結果は調律が合っていないためと分かる、そこで寅楠氏は音楽取調所で音楽理論勉強して納得の2台目を作ることが出来た。これが鍵盤楽器の始まりで現在のヤマハ、カワイ両社が中心となり浜松が楽器の町として発展をした。 |